店を出たあと、クリスマス用の、白と金色のイルミネーションに照らされた通りを、琴吹さんと並んで歩いた。
二人で、ぽつぽつと話をする。
「ツバキって、水戸さんのあだ名かな? 琴吹さんは知ってる?」
「ううん。夕歌が〝ツバキ ? って呼ばれてたことはなかったと思う。それより……夕歌はやっぱり天使のとこにいるのかな。夕歌が学校を休んでいる間に届いたメールにも、天使とレッスンをしてるみたいなことが、ずっと書いてあったし……。夕歌を〝ツバキ ? って呼んでた男が、天使なのかも」
琴吹さんの表情は険しい。どうも、琴吹さんは音楽の天使に敵意を抱いているようで、親友の失踪を、完全に天使と結びつけて考えているようだった。
『オペラ座の怪人』でも、クリスチーヌを地下の帝国に攫ったのは、醜い顔を仮面で隠して天使のふりをしたファントムだったので、気持ちはわかるのだけど……。
けど、琴吹さんが言うように、本当に水戸さんはファントムのもとにいるのだろうか?
失踪した前の夜は彼氏と一緒だったというし、断定はできない。
一体、水戸さんはどこへ行ったのだろう? 何故、寮へ戻ってこないのだろう?
琴吹さんへのメールは、まだ途絶えたままだという。
冷たい空気が、肌をひりひりとなでる。空は曇っていて、月も星も見えない。人工の灯りだけが道を照らし、ぼくらの気持ちとは裏腹に、にぎやかなクリスマスソングが流れている。
琴吹さんが、弱気な目になり言った。
「あたし、自分がラウルになったみたいな気がする。クリスチーヌとファントムのこと嫉妬して、おろおろして、ファントムに攫われたクリスチーヌを助けにいっても、全然役に立たなくて……」
「そういう主人公も、大勢いるよ」
「『オペラ座の怪人』の主人公は、ファントムじゃないの?」
「まだ途中までしか読んでないけど、ラウルの視点で進んでいくから、ラウルじゃないかな」
「でも、後半は、謎のペルシア人の独白になるんだよ」
「えっ、そうなの !? 」
「ラウルは、あっさりファントムの罠にはまって、いいとこナシだよ」
「うーん……」
琴吹さんが唇を尖らせ、悔しそうに、哀しそうに、つぶやく。
「やっぱりラウルは役立たずだ」
「でも、ぼくはラウルを応援するよ。ラウルがクリスチーヌを救出して、ハッピーエンドになればいいって思いながら、続きを読むよ」
笑顔で告げると、琴吹さんはぱっと顔を上げてぼくを見て、すぐに恥ずかしそうにマフラーに顔を埋め、つぶやいた。
「ふ、ふーん、そうなんだ」
そっぽを向いて照れている様子が可愛くて、つい口元がほころぶ。
琴吹さんは、そのままぼそぼそと言った。
「あ、あのね……昨日、昔の手紙を調べてたら、夕歌がお母さんの実家から、夏休みに送ってきた絵葉書が出てきたんだ。住所も書いてあった。そこに手紙を出してみようと思うの。もしかしたら、夕歌の家族と連絡がとれるかもしれないし」
ぼくは微笑んだ。
「うん、それはいい考えだね。早く水戸さんの居場所が、わかるといいね」
◇ ◇ ◇
天使は、いつも一人で歌っている。
月の下で、ざわざわと揺れる草むらに立って、哀しい声を藍色の空に響かせる。
天使は賛美歌が嫌いなのに、天使の声は胸が張り裂けてしまいそうな、悼みと祈りに満ちている。きっと、ここにはいない誰かを想って、天使は歌うのだ。私の知らない誰かの魂を、慰めるために。
昔、天使は人を殺したという。苺を磨り潰したみたいな真っ赤な血が、青いシートを染めて、床にぽたぽた流れ落ちていったのだって。
それから、天使のために、何人もの人が亡くなったんだって。
天使の名前は黒く穢れ、羽根は血で染まり、昼間の世界にいられなくなってしまった。
かわいそう。
天使は、とてもかわいそう。
私は天使の前で、いつも泣いてしまうのに。天使は決して泣いたりしない。私の肩を抱き寄せて、髪をなでて微笑んでくれる。
天使も泣いてもいいんだよって言っても、哀しいことなんてないから、涙が出ないんだって言う。生まれてから一度も、泣いたことはないんだって。
そうして、賛美歌は歌ってくれないけれど、子守歌を歌ってくれる。
私が、怖い夢を見ずにすむように。痛かったことや、苦しかったことを全部忘れて、ぐっすり眠れるように。明日、太陽の下で、罪を隠して、あたりまえの少女のように清らかに笑えるように。
私が、彼の恋人であり、ななせの親友であることができるのは、天使が歌ってくれるから。そうでなければ、私は自分の汚さや醜さを恥じて、体がすくんでしまい、とても二人の前に立つ勇気が持てない。
私は天使に許され救われているのに、日の光にあたることを許されず、名を失い、闇の世界に姿を隠すしかない天使のことは、一体誰が救ってくれるのだろう。