かれらは近江国に蜂起した滋野井公寿・綾小路俊実のもとに集まった浪士の隊である。
相楽総三(本名小島四郎)を総督とし、西郷隆盛の江戸攪乱計画の実行に選ばれてその活躍を期待されたのだが、幕府の策に西郷の計画は挫折。その後、赤報隊は「偽官軍」とされて、岩倉具視の息子具定の軍に誅抜され、相楽は梟首される。
偽官軍の汚名を着せたのは勿論新政府である。
赤報隊は東山道を江戸へと向かった道中で、進路にあたる町村で年貢の半減令を出しながら進み、民肖颏筏盲?辘任斗饯摔膜堡俊¥蓼哭r商民の中には共鳴して入隊する者もでるようになり、赤報隊の勢いは次第に増してきた。一方、初めは年貢の半減を認めていた政府だったが、厳しい財政不足から半減令の撤回を決定。赤報隊にもそれは伝えられ、京都への帰還を命じられた。滋野井・綾小路の両名とそれに従う者達は、素直に進行を中止して引き返したのだが、相楽総三はなおも前進を続けた。その結果政府は、赤報隊を「偽官軍」とし、年貢半減は「偽官軍」によるデマであるとふれ、公約を無かったものとしたのである。
だが、赤報隊を「偽官軍」としなければならなかった理由が、年貢半減令の他にもあった。
彼らの進軍は、実に横暴で強行なものだったのだ。
とりあえず決起はしたものの、後ろ盾のない浪士(ヤクザも多数在する)連中なので、金や武器など十分に持ち合わせておらず、まずは彦根藩を脅して武器・弾薬を提出させた。また、付近の豪家を襲って金品をゆすって進軍。食糧などは現地調達。「半減令」に共感して喜んで出す者もあれば、無理に脅しとられた者も多かったのだ。中には彼らをまねて、偽赤報隊が出没し、略奪・放火などの事件も相次ぎ、これから民肖卫斫猡虻盲普?撙蜻Mめて行かねばならない新政府にとっては、赤報隊の存在は、官軍とは無縁のものとして切り離す他に手段がなかったのである。
罪状は「御一新の時節に仱浮?让?葌韦盲乒佘娤蠕hと称し、良民を襲い、金品を貪り、種種の悪行をした」
進軍中に半減令の告示を出すのは、事前に新政府最高実力者である岩倉具視の許しを得ている。すなわち赤報隊は、強奪を全面に押し出され、偽官軍の汚名を着せられて、半減令のもみ消しにまんまと利用されたのだろう。半減令発布に悩む新政府に、実に取りやすいように足をあげたという訳だ。尤も、足などあげなくとも、「偽官軍」にされたかもしれないが。