人生已余日无多。当人有了这感觉时,将会怎样安排生活。是尽量享受生活的丰富多彩,还是削繁就简,简朴萧淡?
“不看电视、讨厌电话,婚丧嫁娶、晚宴派对都不参加,与打字机、因特网无缘”。今年夏天去世的作家中野孝次先生就是这样摈弃多余的东西,度过了自己的晚年。但是,也有些东西是难以割舍的,那就是为数众多的书籍。
有时候,要放弃珍藏的书真是一种苦涩的决断。“把将要告别的书籍(作家)的名字一一地写下来”。比如德国作家的全集,“要和它们分开就真的感到了切肤之痛”。(《老人的小路》文艺春秋)
也有无法割舍的东西。那就是杯中之物。过午不吃零食,饮水也适可而止,“如此这般做着生理上的准备,想到日落黄昏的到来,每每怦然心动”。接下来,便是“爱犬环侍,独酌微醺”的至乐时光了。
在余生中沉浸于日本、中国以及古罗马的古典世界。这也是一个简朴而又奢华的晚年。在这样的生活中,能看出一种难辨是非曲直的东西。那就是现代社会的偏执。他留下了并非如他所说的“老人的唠叨”的众多警告,与世长辞了。
前些天去世的和歌诗人岛田二先生有这样的作品。“此身已成多余,就以老人的目之敏锐为我所长吧”。那是个应该向老人的目之敏锐而表示敬意的敬老日。
040920《天声人語》
人生の残り時間が少なくなってきた。そう思い始めたとき、人はどうするか。できるだけ豊かに多彩に生きようとするのか。あるいは余計なものを削りつつ、簡素な生き方を志すのか。
「テレビは見ない、電話は嫌い、冠婚葬祭、夜のパーティーはすべて欠席、ワープロ、インターネットとは無縁」。今夏亡くなった作家の中野孝次さんは、余計なものを排除しながら晩年を送った。しかし、容易に捨て去れないものもあった。数々の書物である。
あるとき、愛蔵してきた本を手放す苦渋の決断をした。「別れるべき書物(文学者)の名を一つずつ書いていった」。たとえばドイツ文学者の全集は身内同然で「別れるのは文字通り身を切られるような辛さ」だった(『老いのこみち』文芸春秋)。
捨て去れないものもあった。酒の楽しみである。午後は間食せず、水分も控える。「そうやって体調の下拵(したごしら)えをしながら、日が暮れたときのことを思って、心をおどらせている」。そして「犬たちを傍らにはべらせての独り酒」に至福(しふく)の時間を過ごした。
残りの時間には、日本、中国や古代ローマの古典の世界に沈潜した。簡素でぜいたくな余生である。そんな生活の中から、いやおうなく見えてきたものがあった。現代社会のゆがみである。「老いの繰り言」とはいわせない数々の警告を残し、彼は逝った。
つい先日亡くなった歌人島田修二さんにこんな作品がある。〈余計者になりてしまひし老人の目の鋭さをわがものにせん〉。老いた目の鋭さにも敬意を表すべき敬老の日だ。