在一面与麻风病斗争一面坚持诗歌创作的塔和子的诗中有这么一段。“那么我就是/一条在今天/咬紧明天/这个诱饵的鱼”(《燃起希望之火》诺亚编辑工作室)。
我每听到企图集体自杀的年轻人的事情,总要想起坚持思索着活着或者说被养活着之不可思议的她。与她不同,他们为什么要放弃了去咬食“明天这个诱饵”呢?并且还是集体性的。
“想死可又害怕。或者说,并非想死,是不想活”。这是去年出现在本报上的话。活得累透了之类的念头似乎是人所共有的。还有对死亡的恐惧,对痛苦的逃避。这么说来,他们相信利用蜂窝煤的集体自杀能麻痹恐惧和痛苦的了?
“我们不知道怎样用风炉和蜂窝煤生火,有谁能教教我们吗?”。最近在因特网上也能看到这样的帖子。还有寻求驾照持有者的帖子,说是蜂窝煤弄到了可没有汽车。语气轻松,就像在邀集去远足一样,可总叫人有一种无可明状的异样感觉。
这似乎也不是日本所特有的怪现象。以前,英国报纸也报道过有一个自杀网站策划了一个6个人的集体自杀计划,被警察发觉之后又取消了的例子。话虽如此,还是不如日本这么频繁。
因特网加蜂窝煤。尽管是集体自杀也仍然是孤独感、寂寥感笼罩下的现代日本的风景。“明天这个诱饵”真的就找不到了吗?
041014《天声人語》
ハンセン病と闘いながら詩作をつづけた塔和子(とうかずこ)さんの詩にこんな一節がある。〈そして私は/今日から/明日という餌に/食いつこうとしている/一尾の魚〉(『希望の火を』編集工房ノア)
集団で自殺を図る若い世代の人たちのことを聞くたびに、生きている、あるいは生かされていることの不可思議を考えつづけた彼女のことを思い浮かべる。彼女と違って彼らはなぜ「明日という餌」に食いつくことをやめてしまうのか。しかもなぜ集団なのか。
「死にたいのに怖い。死にたいんじゃなくて、生きたくないだけかな」。昨年、本紙に出ていた言葉だ。生きることに疲れ果てたという思いは共有されているようだ。死が怖いこと、そして苦痛は避けたいことも。恐怖と苦痛を緩和するのが練炭(れんたん)による集団死だと信じられているのか。
「七輪(しちりん)と練炭の火のおこしかたがわかりません。だれか教えてください」。最近もこんな書き込みがインターネットのサイトに見られた。練炭は手に入れたが車がない、と免許証所持者を募集する書き込みもある。ハイキングにでも誘うような気軽さに、何ともいえない違和感をおぼえる。
日本だけの特異な現象ではないらしい。以前、英紙が掲載した自殺サイトについての記事には、6人が集団自殺を計画、警察に知られて思いとどまった例が出てくる。とはいえ、日本ほど頻発はしていない。
インターネットと練炭と。集団死といっても、むしろ孤独感、寂寥(せきりょう)感に襲われる現代日本の風景だ。「明日という餌」を見つけることができないものか。