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【天声人语】04年10月16日 水上勉
时间:2007-12-12 15:30:55  来源:本站原创|http://coffeejp.com/blog/index.php/27935/viewspace-3217  作者:华南虎

 

上月去世的作家水上勉先生遭遇水俣病已是1959年,昭和34年时的事了。他在电视中看到了受害状况就觉得,“这不是在青天白日、大亭广众下上演的杀人案件吗?一定是有凶手的”。

 第二天,他便出发去了水俣。他走访了患者、患者家属以及有问题的工厂。于是他确信,凶手“只有工厂的废液”。后来他发表了以“水泻”市为舞台,有描写患怪病的乌鸦飞扑到尸体上等场面的推理小说《不知火海沿岸》。

 这时喂以工厂废水的猫的症状已得到认定,熊本大学的研究小组也作出了有机汞病因说的报告。而距水俣病的“正式发现”,已过了3年。

 针对从不知火海沿岸移居到关西的水俣病的未确定患者和遗族的起诉,最高法院作出了承认国家和县的行政责任的判决。水俣病被称作战后公害的原点。该判决的意义非常重大。县和国家应该对巨大的受害加以反思,并从内心对患者及其家属谢罪了吧。

 岁月流逝,自“正式发现”以来已近半个世纪了。据说坚持描写水俣的作家石牟礼道子女士在“极其惨烈的岁月的煎熬下”,终于完成了能剧《不知火》。在剧中,龙神的女儿不知火与弟弟一起以自己的身体为牺牲来清除海里的毒素。收录有《苦海净土》等作品的全集第3卷的跋,就以不知火出场时的诗句来结尾。“我将从深深的海底/去探访难以入梦的,清醒的海滩”。

 诗句蕴涵着安抚所有被投入苦海里的生命的情思。

  

041016《天声人語》

 先月亡くなった作家の水上勉さんが水俣病(みなまたびょう)と出合ったのは、1959年、昭和34年だった。テレビで被害の状況を見て「これは、白昼堂々と、大肖蚊媲挨茄荬激椁欷皮い霘⑷耸录扦悉胜い¥嗓长朔溉摔い毪悉氦馈工人激盲俊?

  翌日、水俣に向かう。患者・家族や問題の工場を巡り歩いた。そして犯人は「工場の廃液以外に考えられない」と確信する。「水潟」市を舞台に、奇病にかかったカラスが死体にむしゃぶりつく場面などを描いた推理小説「不知火海沿岸」を発表した。

  既に、この頃には、工場排水を投与(とうよ)したネコの発症が確認されたり、熊本大の研究班が有機水銀説を報告したりしていた。水俣病の「公式発見」から3年が過ぎていた。

  不知火(しらぬい)海沿岸から関西に移り住んだ水俣病の未認定患者と遺族が提訴した裁判で、最高裁が、国と県の行政責任を認める判決を出した。水俣病は、戦後の公害の原点と言われる。判決の意義は大きく、重い。県と国は、甚大(じんだい)な被害を改めて思い、心から患者・家族に謝るべきだろう。

  「公式発見」から半世紀近くの時が流れた。水俣を書き続ける作家、石牟礼道子さんは「あまりに苛烈な歳月に押しひしゃがれたはて」に、能「不知火」を仕上げたという。竜神の娘の不知火が、弟と共に、身を犠牲にして海の毒をさらう。「苦海浄土」などを収めた全集第3巻のあとがきは、不知火の登場場面の詩行(しぎょう)で結ばれていた。「夢ならぬうつつの渚(なぎさ)に/海底より参り候」

 苦海に投げ出された、すべての命への鎮魂の思いが込められている。


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