「今からすぐに日本の吉田茂首相に電報を打とう」。1953年5月、フィリピン紙が一面トップで伝えた。「失われた日比の友情を回復するのに外交官はいらない。オール鐘紡のようなチームをよこすことだ、と」。国交が回復する前、反日感情の強い現地に渡った全鐘紡の野球チームを率いた総監督が、18日に95歳で亡くなった前・高野連会長の牧野直隆さんだった。
“立刻给日本的吉田茂首相发报”。1953年5月,菲律宾报纸的头版头条作了这样的报道。“他说,挽回失落了的日菲友谊不需要外交官,要派全钟纺这样的球队”。发表如此言论的便是在邦交正常化之前,以总教练的身份带领全钟纺队奔赴反日情绪强烈的菲律宾的,原日本高中棒球联合会会长牧野直隆,18日,他以95岁高龄去世了。
親善試合に全力を尽くして引き分けた翌日、反日的とされる新聞の好意的な記事を見て「体の力がスッと抜けた」(自著『ベースボールの力』毎日新聞社)。「理屈ではない。スポーツが人に与える生の感動が、状況を変えたのだ」
在竭尽了全力将友谊赛打平的第二天,看到了反日派报纸上的友好报道后,他“全身一下子就放松了”(自著《棒球的力量》每日新闻社)。“不靠说理。是体育给人的直接感动,使情形发生了改变”。
当時、マニラ郊外のモンテンルパ刑務所には、100人を超す日本の戦犯が収容されていた。試合の3日後にそこを慰問し、大統領との会見では釈放を嘆願した。2カ月後、全員が特赦された。
当时,马尼拉郊外的穆汀鲁帕监狱中还关押着100多名日本战犯。比赛3天之后,牧野直隆去那里进行了慰问,并在与菲律宾总统会见时提出了释放犯人的请求。2个月后,全部犯人都得到了特赦。
渡辺はま子さんのヒット曲「ああモンテンルパの夜は更けて」は、この刑務所の死刑囚が望郷の思いを込めて作詞、作曲した。彼女は、全鐘紡チームが行く前の年に刑務所を訪れ、それを歌った。渡辺さんの歌に加えて野球遠征などが特赦を後押ししたのだろう。
渡边滨子的著名歌曲《啊,穆汀鲁帕之深夜》的词、曲中饱含着监狱中死囚犯们对故乡的思念。她先于全钟纺队一年,来到了该监狱,演唱了这首歌。正是渡边滨子的歌加上球队远征,才促成了此次的特赦的吧。
学生野球、社会人野球を経て、高校野球の世界では、現場の声を生かす改革を進めた。外国人学校に門戸を開いた時に述べた。「規則が受け入れを拒むなら、規則のほうを変えるべきだ」
在学生棒球、成人棒球直到高中棒球的棒球世界里,牧野直隆听取球场上的意见对棒球进行了改革。在对外国人学校门户开放时,他说:“如果规则不接受他们的话,那应该改变的就是规则。”
週1日休養の勧め、投手の肩の検査、「勝利至上」への戒め。柔軟な発想の奥底には、「ベースボールの力」への固い信念と熱い思いがあった。
他建议每周休息1天,检查投手的肩部,告诫不能“胜利至上”。在他灵活的思想深处,有着他对“棒球的力量”的坚定不移的信念和热情。