年轻时的绪形拳曾高叫:“我忍无可忍了。我不是来做佣人的,我是来当演员的”。他想方设法钻进了新国剧,但不给演戏,每天挨打受骂,实在受不了了,才有了在大会上的大叫。据说就在这时,岛田正吾先生拉了已经作好了炒鱿鱼的思想准备的绪形先生一把(《新国剧七十年的辉煌记录》)。
大正时代,泽田正二郎开创的新国剧在昭和时代的末年降下了帷幕,解散了。之后,岛田先生坚持着他的独角戏,终于以98岁高龄与世长辞了。
95年,在岐阜县美浓加茂市被授予坪内逍遥大奖时,他说:“新国剧的标志就是,不管跌下来多少次,还是要向上跳向柳条的青蛙。也就是不屈不挠的泽田精神”。所谓青蛙云云,来自泽田的语录“右边是艺术,左边是大众,我们高举的旗帜上是一只跳向柳条的青蛙”。
96年演独角戏时,岛田先生就表示想演一场“99岁的独角戏”。当时戏目已定,但他说“演些什么呢?现在暂且保密”。他的戏风,厚重、能将观众引入感情的深处,隐约间的又有几分热心、调皮的少年人的影子。
“健康活泼的小右子 贪睡贪吃又贪玩”。这是秋山千惠子女士在给岛田先生做笔录时,岛田的长女林右子给她看的一张岛田手书的纸牌(《戏剧人生》岩波书店)。“划过黑夜的流星 小右子喜欢的歌”
一颗又大又亮的星,拖着长长的尾巴,踏上了旅程。
若き日の緒形拳が絶叫した。「もう我慢ができない、下男をしにきたのではないのだ、役者になりたいのだ」。押しかけて新国劇に入ったが、芝居より、罵倒(ばとう)されたり殴られたりの日々に耐えかね、総会で叫んだ。この時はクビを覚悟した緒形さんを抜擢(ばってき)してくれたのは、島田正吾さんだったという(『新国劇七十年栄光の記録』)。
大正時代に沢田正二郎が始めた新国劇が70年の幕を閉じて解散したのは、昭和という時代が終わる少し前だった。島田さんは、その後も一人芝居を続けてきたが、ついに98歳で逝った。
95年、岐阜県美濃加茂市の坪内逍遥大賞を受けて述べた。「新国劇の紋所は、落ちても落ちても柳に飛びつくカエルでございます。不撓(ふとう)不屈の沢田精神でございます」。カエルは、沢田の語録の「右に芸術、左に大小ⅳ钉攻蕞`クは柳に蛙」に由来する。
96年の一人芝居では、「99歳の一人芝居」を演じたいとあいさつした。演目は決めてあるが「その芝居が何であるかは、今は白状いたしません」。重厚であり、観客を人情の根本へといざなう芸風でありつつ、どこかに、いたずらっぽさと熱い心を宿す青年の面影があった。
「いつもげんきな いうこちやん よくたべよくねて よくあそぶ」。秋山ちえ子さんが島田さんから聞き書きをした時、長女林右子(ゆうこ)さんが見せた島田さん手書きのカルタの1枚である(『芝居ひとすじ』岩波書店)。「くらいみそらの ながれぼし いうこのすきな ほしのうた」
大きくて明るい星が、長い尾を引きながら、旅立っていった。