100211作家立松和平去世
出世作の「遠雷」も忘れがたいが、立松和平さんといえばオニオンスライスである。早大に合格して上京し、下宿の近くの食堂へ行った。むろん懐は寒い。品書きをにらみ、一番安いオニオンスライスを注文した。
其成名作《远雷》自然令人难忘,但提起立松和平总会联想起翁尼翁斯拉伊斯。考上了早稻田大学他来到东京,去寄宿处附近的小饭店吃饭。囊中羞涩是自不必说的。仔细看了一遍菜单后,他就要一份最便宜的翁尼翁斯拉伊斯。
「オニオンス・ライス」、つまり玉葱(たまねぎ)ご飯だと解釈したのだった。薄切りの玉葱が運ばれたが、おかずだと思い、ご飯が来るのをひたすら待ったそうだ。「玉葱の上にかかった花かつおが、人を小馬鹿にしたように揺れていた」と回想している。
他自以为“翁尼翁斯拉伊斯”就是洋葱饭(译注:“翁尼翁斯拉伊斯”是外来语,原文英语是onionslice,是onin<洋葱>和slice<薄片>的复合词。而立松和平将“翁尼翁斯拉伊斯”看作了onions<洋葱的复数>+rice<米饭>,所以以为是“洋葱饭”。在日本称作“……+拉伊斯”即“……+rice”的简餐很多。如:“卡莱拉伊斯”就是咖喱饭。)。据说,当切得薄薄的洋葱被端上来时,他以为只是小菜,还傻愣愣地等着上饭呢。后来回想起此事时,他说:“撒在洋葱上面的干鱼刨花忽忽悠悠地飘摆着,像是在偷偷地嘲笑我。”
そんな田舎の青年が、そのまま年を重ねたような風貌(ふうぼう)だった。故郷の栃木弁が似合っていた。玉葱の食堂では、訛(なま)りが恥ずかしくてご飯を「催促」できなかったという。だが後年はそれが持ち味になり、語りは炉辺談話の趣をかもしていた。62歳での他界は惜しまれる。
就这么一个乡下青年,年岁的增长也似乎并未改变其原貌。家乡的栃木方言与他十分匹配。据说在那个点了洋葱的小饭店里,他就因为羞于自己的一口方言没敢催人家上饭。但后来这种口音反倒成了他的独特风格,使炉边谈话趣味盎然(译注:1986年至1993年间,他经常出现在电视节目中,讲述他的旅行经历。)。年仅62岁就撒手人寰,不免令人痛惜。(译注:立松和平于2月8日下午5点37分因心力衰竭而死亡。)
いわゆる書斎派ではない。世界を旅し、足跡は南極にもおよぶ。知床に山小屋を構えて通いつめた。諫早湾の干拓に物申し、鉱山開発で荒廃した足尾の山に木を植えた。自然が本来持つ「豊饒(ほうじょう)」への、ゆるがぬ信頼が身を貫いていた。
他不属于书斋派。他周游世界,足迹直至南极。他曾在知床搭建了山中小屋,并天天光顾。也曾抗议过谏早湾的填海工程,在因矿山开采而荒芜了的足尾山上植树造林。对于大自然固有的“丰饶”始终保持着坚定的信念。
かつて小紙に、「老後の楽しみは木を植えること」だと寄せていた。何百年も伐採しない森を作り、その木材で法隆寺など古い寺院を未来に残したい。夢を温めていたが、人生の時間を天はもぎ取ってしまった。
以前他投稿给本报时提到过,“老了以后的乐趣就在于植树造林了”。他希望建成数百年都不采伐的森林,并用其木材将法隆寺等古庙留给未来。计划虽已有所酝酿,然而,天不假年,终成遗憾。
冒頭の食堂に話を戻せば、立松さんは玉葱だけ黙って食べたそうだ。そして「東京暮らしはつらいな」と思う。切ないのに、どこかおかしくて、あたたかい。そんな空気を人徳のようにまとい続けた作家だった。
再回到开头提到的那个小饭店。据说当时他一声不吭地仅仅吃了一份洋葱,心想,“东京的日子不好过啊”。令人辛酸,却又有些滑稽、温暖的感觉。而这种氛围就如同其人品一般伴随了他的一生。
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