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『天声人语』2010年0308再论“烧火”
时间:2010-03-16 18:12:54  来源:咖啡日语原创  作者:华南虎

100308再论“烧火”

四季折々の詩を残したが、山村暮鳥といえば「春の詩人」だろう。のどかな牧歌を思わせるその詩群に「郊外小景」という一編がある。遠くに見える山なみは雪で白い。だが、よく見ると、山かげから一すじの煙が立っている。

    尽管他写下了吟咏四季不同风光的诗,可提起山村暮鸟一般还是称他为“春天诗人”的吧。在他众多的田园牧歌式的作品中,有一首题为《郊外小景》的诗。远处的群山,一派银装素裹。细细一看,山后却升起了一缕青烟。
〈おや、あんなところにも/自分達(たち)とおなじような/人間がすんでいるのだろうか/それなら/あの煙のしたには/鶏もないているだろう/子どももあそんでいるだろう……〉。煙の立つところ、人の営みがある。いまは「何軒」と呼ぶ家の数を、昔は「何煙」と数えたこともあったと、民俗学の柳田国男が書いている。

  “哎,如此荒野之地/也居住着/与我们同样的人类吗?/倘若如此/那么,青烟之下/也有鸡鸣吧/也有孩子在玩耍吧……”。有烟的地方就有人类活动。民俗学家柳田国男在其著作中提到,如今我们用“几间”来统计房舍,从前也用过“几缕烟”的。

「くべる」という言葉が死語になりつつあると先ごろ書いたら、多くの便りを頂戴(ちょうだい)した。かつて火を焚(た)くことは身近だった。深い郷愁を年配の方々はお持ちのようだ。

前不久,本栏曾提到“くべる(烧火)”一词正在成为死语。之后收到了许多读者来信。以前,烧火是日常生活的一部分,因此,很多上了年纪的读者似乎对此怀有深深的留恋。

勤めから帰った遅い風呂は、いつも母親が薪をくべてくれたと懐かしむ人もいた。松飾りを庭でくべて「小さな小さなどんど焼き」を毎年します、という文面もあった。ガスの青い炎にはないぬくもりを、くべるという行為は包んでいるらしい。

有的读者十分怀念当年下班回家较晚时,母亲总要添柴将洗澡水烧烫的情景。也有读者在信中写道,以前每年都要在院子里焚烧新年里装饰用的门松,举办一个“小型的‘咚咚烧’”。烧火的行为似乎能给人一种煤气的蓝色火苗所不具备的温馨。

蕪村の〈春雨や人住みて煙壁を洩(も)る〉を思い出す。つましい山家で柴(しば)をくべている。壁のすき間から煙がもれ、芽吹きの細い雨にたゆたう様は、暮鳥の詩とどこか響きあう。一幅の絵を見るような名品である。

这让我想起了芜村俳句:“蒙蒙春雨里,袅袅青烟出墙缝,山中一人家”。俭朴的山里人家正在烧柴火,青烟从墙缝里钻出,在催发新绿的蒙蒙细雨中袅袅升起。此种意境似可与暮鸟的诗形成某种呼应。真是诗中有画的精品。

「くべる」への郷愁を懐古趣味と笑うなかれ。人が生きるための技術でもある。便りには、マッチを擦ったことのない若者がいて驚いたというのもあった。何かの折に困りはしないだろうか。老婆心がふと頭をよぎる。

请不要将对“くべる(烧火)”的留恋嘲笑为怀旧情结。因为它还是一项人类的生存技术。然而,也有年轻人来信说从未划过一根火柴,这倒令我十分惊讶。一个杞人忧天的念头在我的脑海中一闪而过:遇上些什么事儿,他们能对付得了吗?

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