倾听沉默
2011年1月10日(月)付
「絵は音楽に負ける」。昭和洋画壇の重鎮、中村研一の言という。音楽に涙する人は多いけれど、絵で泣いた話はめったに聞かないと。財界文芸誌「ほほづゑ」の座談会「音を楽しむ」で、同誌世話人の奥村有敬(ありよし)さんが紹介していた。
“绘画败給音乐了”。据说这是昭和西洋画坛的泰斗中村研一说的话。很多人听到一段音乐会热泪盈眶,但很少听说有人看一幅画会流泪的。这是财经界文艺杂志《颊杖》的赞助人奥村有敬在该杂志举办的座谈会《享受声音》上告诉大家的。
どんなに心を癒やす旋律も、車内で飛び散る破片は神経を逆なでする。イヤホンの音漏れだ。不快を逃れるにはこちらの耳も音で塞ぐのが早い。核兵器と同様、武装した者の間には一時の平和が訪れる。しかし暴発の危険は拡散する。
无论怎样安慰心灵的旋律,如果变成飞散在车厢中的声音碎片,是让人感到很不舒服的。说的是人们在车上听音乐时从耳塞中漏出的声音。为了逃避这讨厌的声音,其他人也赶紧戴上耳塞听自己的音乐。这就好比核武器,拥有核武器的国家之间暂时是和平了,但发生核爆炸的危险却扩散了。
先般、大阪本社版などの声欄に、女子学生(18)の投書「イヤホン外して雑音聞こう」が載った。「時には街に出て、会話や小鳥に耳を傾けよう。知り得なかったことが見えてくる」。そんな「開耳」の勧めである。
前几天,大阪本刊等的读者心声栏目曾刊登了一名18岁的女学生的投稿,稿件名为《摘下耳机,倾听杂音》。文章写道:“有时我们也到街上倾听一下别人的对话或小鸟的叫声吧。会发现一些我们以前不知道的东西的。”她希望大家能籍此“打开耳朵”。
音楽の効用は気晴らしの域を超えるが、その癒やしは万能ではない。例えばひどく落ち込んだ時、落胆の理由までは消し去ってくれない。音に紛らせただけの傷心は、芳香で封じた悪臭のように、再び「雑音」にさらされた時がつらいものだ。
尽管音乐具有让人心情好转的功效,但这种安慰也不是万能的。例如心情极端低落的时候,音乐是无法帮我们连导致心情不好的原因都一同消解的。只是用声音去掩盖的伤心,就好比用芳香封存起来的恶臭,再次暴露在“杂音”中时,只会更伤心。
〈心がうらぶれたときは 音楽を聞くな〉という鮮烈な詩がある。清岡卓行(たかゆき)さんの「耳を通じて」だ。ではどうするか。〈空気と水と石ころぐらいしかない所へ そっと沈黙を食べに行け! 遠くから生きるための言葉が 谺(こだま)してくるから〉。
“心情落魄时,切莫听音乐。”这首让人印象深刻的诗出自清冈卓行的《通过耳朵》。那么我们应该怎么做呢?“到只有空气、水和石块的地方去,静静地品尝沉默!因为从远方,会传来带给我们生命活力的话语。”
逃げずに挫折や傷心と向き合えば、再起の手がかりが降臨する。心のささくれが絶えぬ現代人には、そうした「無音の恵み」こそ良薬なのかもしれない。何より誰かを煩わすことがない。いざ、沈黙を食べに河原にでも。
不要去逃避,直面挫折与伤心,迈向成功的机会很快就会降临。对于心灵创伤不断的现代人来说,这种“无声的恩赐”也许才是灵丹妙药。而且最大的好处是这样做不会打搅到其他人。好,让我们到河滩上品尝沉默去吧。