变心的有德和缺德
2011年1月15日(土)付
NHKドラマ「坂の上の雲」で、明治の言論人、陸羯南(くが・かつなん)を佐野史郎さんが演じていた。その陸と、やはり論客の徳富蘇峰を比べた小欄を、先輩筆者だった深代惇郎が書いている。
NHK的历史剧《斜坡上的云》中,佐野史郎饰演了明治政论人士陆羯南。当时本栏目的前任作者深代惇郎在文章中将这位陆羯南与另一位同为时政评论人的德富苏峰作了对比。
長い目で見れば論調が首尾一貫と言えないのは両人とも同じだった。だが蘇峰はしばしば「変節」を言われ、羯南にはそうした非難はなかった。この違いを評して、言論人で哲学者の三宅雪嶺が言ったそうだ。「羯南は私心によって説を変えたのではないことが明白だったからではないか」。
如果从较长的时间跨度看,两个人都有论调前后不一致的问题。然而苏峰屡屡被人诟病为“变节”,但羯南却从未遭受如此的非议。对于为什么有这样的区别,据说评论家兼哲学家三宅雪岭是这样评论的:“因为人们知道羯南不是因为私心而改变自己的观点的。”
「心変わりにも人徳(の有無)があるらしい」と筆者はコラムを締めている。さて、たちあがれ日本を離党して入閣した与謝野経財相である。心変わりに「人徳」はありやなしや。この人事、菅内閣のみならず、日本丸の行方も左右しかねず侮れない。
“变心看来也有有德和缺德之分。”作者在文章的结尾这样写道。那么,脱离日本振兴党后入阁的财经大臣与谢野馨的变心是有德还是缺德的呢?这个人事安排,不单对菅内阁,很有可能关系到整个日本今后的走向,是绝不可以掉以轻心的。
年齢から見て、ご本人には「最後の奉公」の念があろう。だが民主党を鋭く批判してきた舌の根は、いつの間に乾いたのか。曲折への十分な説明がまず欠かせまい。私心が透けるなら国民の目には、やはり政治は信を置けぬ代物と映るだろう。
从年龄上来看,大概本人心里有“这是最后一个入阁机会”的想法。不过,他一直尖锐批评民主党的舌头,到底是什么时候口水变干了呢?对于这个转变,首先应该做出充分的解释吧。如果是带有私心的话,在国民的眼中,政治依然是个不能将自己的信任托付的东西。
「明日(あす)」と題する詩が与謝野氏の祖母晶子にある。憧れの明日はやがて〈平凡な今日に変り、灰色をした昨日になってゆく〉と嘆く。どこか国民が民主党にゆだねた「明日」の、これまでの末路を思わせる。
与谢野的祖母与谢野晶子有一首题为《明天》的诗。诗中叹道,憧憬的明天很快就“变成平凡的今天,再变成灰色的昨天”。这诗不由让人联想到国民对民主党托付的“明天”日后的穷途末路。
詩の中で晶子は、それでも明日に夢を抱く。そのお孫さんが閣内で、税や社会保障など私たちの明日に向けた要職を担う。仕事ぶりと結果が疑義への答えとなろう。六分の不安、四分の期待で見守らせていただく。
尽管如此,诗中的晶子依然对明天怀抱梦想。他的孙子就要在内阁担任税收、社保等关系到我们明天的要职了。当然,其工作的状态和结果将验证人们对他的质疑是否得当。让我们带着六分不安、四分期待来守候。