「煙草、いいかしら?」
近くの喫茶店に入り、ソファーに腰を落ち着けるなり訊かれた。
「えっと……」
琴吹さんのほうを見ると、こくりとうなずく。
「はい、どうぞ」
そんなやりとりを見て、粧子さんは優しく目を細めた。
「ありがと。喉に悪いってわかってるんだけど、やめられなくて」
ライト系の細い煙草をくわえ、銀色のライターで火をつける。その仕草が、モデルのように決まっている。確かにすごい美人だ。流人くんはどこで知り合ったのだろう。
粧子さんは声楽の先生で、水戸さんのことも知っていた。ずっと学校を休んでいるのだと、眉をひそめて語った。
「そろそろ十日になるかしら。寮にも帰ってないようだし。わたしも心配してたのよ」
「夕歌は、寮に入ってたんですか?」
琴吹さんが、頬をこわばらせて尋ねる。
「ええ。秋にご両親が引っ越してしまったのでね」
水戸さんのお父さんが、友達の連帯保証人になり、借金を肩代わりすることになってしまったことや、借金取りが職場にまで押しかけ、仕事を続けられなくなってしまったことなどを、粧子さんは辛そうに語った。
その間、琴吹さんは、真っ青な顔で目を見開いていた。
「今月の発表会で、水戸さんは主役のトゥーランドットを演じることが決まっているわ。どうやらいい先生がついたみたいで、今年の夏頃から、水戸さんの声は劇的に変わったの。それまでは喉を潰すような無茶な歌い方をして、伸び悩んでいたのにね。一体どこのスタジオの講師なのか、それともプロの歌手なのか、わたしも興味があって尋ねたのだけど、水戸さんははぐらかして答えてくれなかったわ。冗談なのか、『わたしの先生は、音楽の天使です』なんて言ってたわ」
琴吹さんが肩をびくっと震わせた。恐ろしい言葉を聞いたように、目に怯えを浮かべる。
「どうしたの? 琴吹さん」
「な……なんでもないよ」
スカートの端をぎゅっと握りしめ、苦しそうに声を押し出す。なんでもないようには見えないのだけど……。
「主役にも選ばれて、本当に、これからだったのにね。プロとしてもやっていける力を持った子だったのに」
粧子さんはやり切れなさそうに、煙草を灰皿に押しつけた。
「ごめんなさい。そろそろ学校に戻らなきゃ。井上くん、携帯を貸して」
「あ、はい」
差し出すと、慣れた調子でボタンを操作し、返してよこした。
「わたしの番号とアドレスを入れておいたわ。水戸さんのこと、なにかわかったら連絡をちょうだい。わたしもそうする」
「ありがとうございます。あのっ、できたら水戸さんのクラスメイトにも、話を聞きたいんですけど」
「わかったわ。明日またこの喫茶店に来てくれる?」
伝票を持って立ち上がり、粧子さんはふと思い出したように言った。
「ねぇ、井上くんたちは聖条だったわね。マリちゃんは、元気にしてる?」
「毬谷先生と、お知り合いなんですか?」
粧子さんの口元が、ほころぶ。
「大学の後輩よ。マリちゃんはわたしたちの希望の星だったのよ。そりゃあ軽やかで澄みきったテノールで。日本を代表するオペラ歌手になるだろうって、言われてたのよ」
「毬谷先生は元気だし、とても楽しそうですよ。この前も『一杯のチャイがあれば人生は素晴らしい』っておっしゃってました」
「相変わらずね。彼、パリに留学中に、いきなりどっか行っちゃって、一年後にけろっとした顔で帰ってきたのよ。髪はぼさぼさで、日焼けして真っ黒な顔でね。あちこち旅行して来ました、ただいま、とか笑いながら言っちゃって、本当に人騒がせよね」
おだやかな優しい顔で言い、
「水戸さんも、そんな風に、笑顔で戻ってきたらいいのにね」
とつぶやき、粧子さんは店を出て行った。
外は、北風が吹いていた。
通りのウインドウには、赤や金色のリボンや、白い綿で飾られた商品がディスプレイされている。もうじきクリスマスなのだ。
「琴吹さん、〝音楽の天使 ? って、なんのことかわかる?」
正面から吹きつけてくる風にマフラーが飛ばされないよう、手でしっかり押さえながら尋ねると、同じように前のめりで歩いていた琴吹さんが、ためらうような素振りを見せたあと、歯切れの悪い口調で答えた。
「……『オペラ座の怪人』のことだと思う」
「『オペラ座の怪人』って、ミュージカルの?」
テレビのCMで見た、顔を仮面で隠した黒い服の男を思い浮かべる。
琴吹さんは、苦しそうに「うん」と、うなずいた。
「夕歌はあのミュージカルのファンで、原作も何度も読み返してた。あたしに貸してくれたこともある。その中に、ヒロインの歌姫にレッスンをする〝音楽の天使 ? が出てくるの。夕歌は前から、自分も〝音楽の天使 ? に会えたらいいのにって言ってたんだ」
琴吹さんはマフラーに、顔を半ば埋めるようにして震えている。
「それにね――」
声をひそめて語る様子は、まるで〝音楽の天使 ? を恐れているようだった。
「今年の夏休みに、夕歌から、ヘンなメールをもらったの。『ななせ、わたしは〝音楽の天使 ? に会ったのよ』って」
耳元を鋭い風が通り過ぎていった。獣の遠吠えのような冷たい風の音が、琴吹さんの言葉を千切ってゆく。
「そのあとも、天使のことを話すときは、いつもテンションが高くて、『天使があたしを、楽器のように歌わせてくれるのよ』とか、『天使が、空の向こうへ導いてくれるの』とか……酔っぱらってるみたいで、普通じゃなかった」
「水戸さんから、その人の名前を聞いている?」
琴吹さんは首を横に振った。
「ううん」
そうして唇を噛み、急に目に強い怒りを灯し、険しい声で言ったのだった。
「……けど、夕歌は、天使と一緒にいるんじゃないかと思う」