『――眠ってるとこ起こされたから、よく覚えてないんだけど……〝クリスマスツリーがとても綺麗なの ? とか〝彼が抱きしめてくれて、あったかい ? とか、そんなことをぺらぺら話してた。あのときの夕歌も、異様にはしゃいでいて、おかしかった』
ラウルは、ぼくらの学園にいる。
水戸さんの彼は、自分の彼女が失踪中であることを、知っているのだろうか?
琴吹さんの話では、水戸さんが行方を絶つ直前まで、二人は一緒にいたことになる。
だとしたら、水戸さんの居場所を知っているのは、天使ではなく彼のほうなのではないか?
もうひとつ引っかかるのは、何故水戸さんが失踪したあとも、琴吹さんにメールを送り続けたのかということだった。
水戸さんから最後に電話があったのは十日前。その日から水戸さんは学校を休んでいる。なのに、それ以降も、二人は普通にメールのやりとりをしている。水戸さんは、琴吹さんに失踪を知られたくない理由があったのだろうか?
そして、水戸さんからメールが途絶えたのは三日前――。今、水戸さんはどうしているのか?
脳みそがきりきり引き搾られ、耳鳴りがしてきて、ぼくはベッドに仰向けになり、文庫を開いたまま胸に乗せ、浅い息を吐いた。
わからないことが多すぎる。
もし、遠子先輩がいてくれたら――。
あのお節介で能天気でズボラで、そのくせヘンなところに敏感で、優しい目をしたあの〝文学少女 ? なら、この物語をどう読み解くのだろう。
「電話……してみようかな」
顔を横に向け、机の上の携帯電話を見つめると、胸の奥の方が擦れるように疼いた。
「……携帯の番号とメアド、まだ教えてないし」
遠子先輩は携帯を持っていない。救いようのない機械音痴だから、メールのアドレスなんか渡しても、絶対に使わないだろうけど……。
そんなのは口実で、あの、あたたかでお気楽な声が、今、聞きたくてたまらない。
いや、ダメだっ。遠子先輩は受験生なんだから、巻き込んじゃいけない。あの人のことだから、話せば果てしなく首を突っ込んでくるに決まっている。
胸が切なくなり、携帯から目をそらし、シーツをぎゅっと握りしめる。
そうだ、春になったら遠子先輩は卒業して、いなくなってしまうのだから……。
いきなり携帯が鳴り出したので、ぼくは心臓が止まりそうになった。
まさか、遠子先輩 !?
慌てて机に駆け寄り、着信を確かめる。相手は芥川くんだった。
「もしもし、井上?」
「芥川くん……どうしたの、急に?」
「いや、琴吹のことで、大変そうだったんで、気になってな。困ってることはないか?」
それは芥川くんらしい気遣いだった。
こわばっていた気持ちがほどけ、声が自然とやわらかくなる。彼と友達になれてよかったと思った。
「ありがとう。こっちは大丈夫だよ。琴吹さんも森《もり》さんたちと、仲直りしたみたいだし」
「そうか。オレが力になれることがあったら、なんでも言ってくれ。どんな小さなことでもかまわない。遠慮はするな」
「うん、ありがとう」
翌日。教室で芥川くんと顔をあわせて、ぎょっとした。
「どうしたの !? その傷!」
右の頬と首筋に、爪で縦に引っかかれたような痕がある。首筋の三本の線は、かなり深そうで、紫色に腫れ上がっていて痛々しい。
「ちょっと……猫にな」
芥川くんが苦笑し、ほんの少し目をそらす。
「すごく痛そうだよ、大丈夫」
「ああ……大したことはない」
また少しだけ、目を横にそらす。
「ずいぶん凶暴な猫だね。あれ? でも、きみんち、猫なんて飼ってたっけ?」
何度か訪問したけど、庭に鯉が泳いでいたくらいで、猫の姿は見なかったような……。
「いや……よその猫だ。扱いがまずくて、機嫌を損ねてしまったらしい」
視線を落ち着かなげに移動させながら、奥歯にものが挟まった口調で言う。
それからいきなり真剣な顔になり、ぼくをじっと見つめ、尋ねた。
「それより、井上は変わりはないか?」
「昨日、会ったばかりじゃないか。電話でも話したし。あ、電話ありがとう」
「いや、それはいいんだ……。そのあと、おかしな電話やメールが来たりとか、そういったことはなかったか? その……最近そういう着信が多いらしい」
「今のとこ、迷惑メールもワン切りもないよ」
芥川くんが、さらに顔を近づけてくる。
「携帯のアドレスや番号を変える予定は?」
「ないけど……どうしたのさ? 芥川くん?」
ぼくの言葉に、我に返ったように身を引き、無理をしているような笑みを浮かべる。
「いや、不都合がないならいいんだ。気にしないでくれ」
変だな? どうしたんだろう? 怪訝に思ったけれど、琴吹さんのことで手いっぱいで、それ以上追及できなかった。
放課後、昨日の喫茶店で、水戸さんのクラスメイトに会った。
彼女たちも、水戸さんの歌が急に上手くなったことに驚いていた。
「主役に選ばれたのも、大抜擢だったんだよ。トゥーランドットは高慢で冷酷なお姫様だから、全然水戸さんのイメージじゃなかったのに」
「相手役のカラフは、若手ナンバー1プロの荻原さんでね、二幕の問いかけのシーンで、荻原さんの声に負けて、ずたぼろなんじゃないかって、悪口言われてたんだよ」
ところが、稽古がはじまってみると、水戸さんの声は、客演のプロの歌手を圧倒する勢いだったという。
「水戸さんは内緒にしてたけど、きっと、すごく有名な先生にレッスンを受けてたんだよ。じゃなきゃ、急にあんな声、出せないって。今も、水戸さんが休んでるのは、どっかで秘密特訓をしてるんじゃないかって言われてるし」
「うん、それなら水戸さんが役を降ろされないのも納得かな。バックにお偉いさんがついてるって噂も前からあるよね。水戸さんを主役に推したのも、その人なんじゃないかって」
「そのお偉いさんが、誰だかわかる?」
「さぁ……」と首を傾げたあとで、思い出したように言った。「あっ、でも! あたし、水戸さんが、黒いスーツを着た男の人と、外車に乗るのを見たことあるんだ。肩なんか抱かれて怪しい雰囲気で、水戸さんはその人に『ツバキ』って呼ばれてた……」