天使は、私を最上級の名器のように歌わせてくれる。
初めて会ったあの夜から、ずっとそう。
あの日まで、私は、自分が壊れた楽器みたいだと思っていた。力一杯息を吹き込んでも、掠れた音しか出せないポンコツだって。
けれど、今は違う。
透明な玉を、ころころ転がすようなコロラトゥーラ、どこまでも高く遠く伸びてゆく輝かしいベルカント。弾む声。高まる声。煌めく声。風のような、光のような――声。
あらゆる歌を、私は軽々と、自然に歌いあげ、空とひとつに溶け合ってゆく。
天使が、私の中に押し込められ、縮こまっていた歌を、解き放ってくれた。
歌えば歌うほど、心も魂も透明になって、頭が痺れ、体が軽くなってゆく。なにもかも、忘れられる。
私は、舞台の真ん中で、真っ白な光に照らされ、アリアを歌っているように、恍惚として、幸福で、それでいてとても恐ろしい。
もし、これが全部夢で、目覚めたら霧のように消えてしまったら、とても生きていけない。
◇ ◇ ◇
水戸さんは何故、家族から離れて、一人でこちらに残ることを選んだのだろう。
そうまでして、歌を続けたかったのだろうか。
なのに、発表会の主役に選ばれながら、何故失踪したのか――。
そんなことを考えながら、帰宅後、途中の本屋で購入した『オペラ座の怪人』の文庫を、ベッドに寝そべり読みはじめた。
本は厚く、細かな文字で埋まっている。これは一晩で読むのは厳しそうだ……。
物語は、オカルトめいた雰囲気ではじまる。
時は十九世紀の末。パリのオペラ座に、幽霊が住み着いているという噂が流れる。
幽霊は、〝オペラ座のファントム ? と名乗り、支配人たちに様々な要求を突きつける。
例えば、ファントムに対して、年額二十四万フランを支払うこと。
五番の二階ボックス席は、全公演に際し、ファントムの自由にゆだねること。
クリスチーヌ=ダーエを、歌姫カルロッタの代役として舞台に立たせること――。
一介のコーラスガールだったクリスチーヌは、この舞台で素晴らしい成功をおさめる。観客は、奇跡のような歌声に酔いしれ、拍手喝采する。
実はクリスチーヌは、〝音楽の天使 ? を名乗る正体不明の〝声 ? に、秘密のレッスンを受けていたのだ。
クリスチーヌの幼なじみで、彼女に恋する純情な青年、ラウル=ド=シャニイ子爵は、彼女が〝音楽の天使 ? と話しているのを盗み聞きしてしまう。
そうして、〝音楽の天使 ? を師と慕う彼女の様子に、激しい嫉妬を覚える。
クリスチーヌは、〝音楽の天使 ? を愛しているのではないか? 〝音楽の天使 ? は、クリスチーヌを誘惑し、連れ去ろうとしているのではないか?
心が焼かれ、たぎるような衝動をもてあまし、居ても立ってもいられないラウルの心情が細かに描写され、気がつけば手のひらに汗をかくほど、物語にのめり込み、ラウルと一緒に胸が押し潰されそうな不安を味わっていた。
もう一人のクリスチーヌは――水戸夕歌は、無事でいるのだろうか?
水戸さんも、〝音楽の天使 ? にレッスンを受けていた。天使が自分を高みへ連れて行ってくれるのだと、酔うように話していたという。そして、水戸さんの声も、クリスチーヌのように素晴らしい進化を遂げた。けれど、天使の名前や素性を、水戸さんは親友の琴吹さんにすら明かさなかった。
それは何故? 天使に止められていたから?
それとも、水戸さん自身も、天使の正体を知らなかったから?
一体、水戸さんの天使は誰なんだ? そして、水戸さんのラウルは?
帰り道に、琴吹さんが話してくれたことを思い出す。
『夕歌は天使と一緒にいるんじゃないかと思う。天使と会ってから、夕歌はあたしが遊びに誘っても断ることが多くなって、毎日一秒でも長く、天使と歌っていたいみたいだったから。あたしが、おかしな宗教にでもはまってるみたいって言ったら、すごく怒って、三日もメールをくれなかった。夕歌は……天使の言うことなら全部信じちゃいそうだし、天使に命令されたら、なんでもしそうだった……』
宗教――という言葉に、ドキッとした。天使は水戸さんにとって絶対的な教祖のような存在で、その傾倒ぶりを、琴吹さんはずっと心配していたようだった。親友を、わけのわからないものに奪られてしまったという嫉妬もあったのかもしれない。
『水戸さんには、彼氏がいるって言ってたよね? 天使と彼は、同じ人?』
毬谷先生にコンサートに誘われたとき、そんなことを叫んでいたような気がする。
『ううん。夕歌が彼とつきあい出したのは、去年の秋だから別人だよ。彼氏は、うちの学校のやつで、文化祭で知り合ったって、夕歌は言ってた。けど……』
声が途切れる。
『夕歌は、名前を教えてくれなかったの。ななせに彼氏ができたら話すよって、笑って誤魔化して……。しつこく訊いたら、ヒントをくれたけど、それもよくわからなかった』
『どんなヒント?』
『三つあって……彼は九人家族で、考え事があると、机の周りをせかせか歩き回る癖があって、コーヒーが大好きだって』
確かにわかりにくい。コーヒーが好き――そんな人は山ほどいるし、机の周りを歩き回る癖も、よほど身近な人間でなければ気づかない。九人家族は今時珍しいけど、これも学校中の人間を調べるとなると大変だ。
琴吹さんも、弱り切っているようだった。けど、一瞬惚けた顔をしたあと、大事なことを思い出したように言った。
『そういえば……最後に夕歌と電話で話したとき、隣に彼氏がいるって言ってた』
『最後に電話で話したのって、いつ?』
『十日ぐらい前、かな……』
『水戸さんが、学校を無断欠席するようになった頃だね』
『……うん。あの日は、どうしても夕歌に相談したいことがあって、留守電に吹き込んだんだ。そしたら、バイトに行かなきゃいけないから、夜電話するってメールがあって。なのに十二時を過ぎてもかかってこないから、諦めて眠っちゃったんだ。そういうとき夕歌は必ず、電話できないってメールをくれるはずなのに、おかしいと思ったんだけど……。そしたら、夜中の二時過ぎに、いきなり夕歌から着信があったの。驚いて電話に出たらすごくうかれていて、〝今、彼と一緒なの ? って――』
風が、琴吹さんの前髪を跳ね上げ、寒そうに首を縮める。