一章 ● おやつは絶対、忘れずに
「あ、お砂糖のタルトだわ」
原稿用紙の端を小さく干切って口に入れると、遠子先輩は嬉しそうに、にっこりした。
「ざくざく崩れてゆくタルト生地の中に、コクのある赤砂糖と黒砂糖、大粒のクルミの、リズミカルな食感……」
溜息とともにつぶやき、大切そうにちまちま破いては口へ運ぶ。
「噛みしめるごとに広がる素朴な甘味……しっかりと甘いのに、決してクドくはならない絶妙のバランス」
ぴりっ。しゃくしゃく。こくっ。
本の塚に埋もれそうな狭い部室に、奇怪な音がひそやかに響く。
遠子先輩は、物語を食べる妖怪なのだ。
「わたしは妖怪ではなく、ただの〝文学少女 ? です!」
と本人は主張しているけれど、紙に書かれた文字を美味しそうにパリパリやっている姿は、とてもまっとうな女子高生には見えない。
「あのねっ、お砂糖のタルトは、タルト=シュクルというのよ。シュクルはフランス語で、お砂糖の意味なの。表面がちょっと焦げて、苦くなっちゃってるけど、そのアクセントがまた、たまらないわ。今日は合格! えらいぞ、心葉くん!」
〝焚き火 ? 〝トナカイ ? 〝早食い競争 ? の三つのお題で書いた〝おやつ ? は、遠子先輩のお気に召したらしい。
早食い競争に敗れ、夜の森を孤独に彷徨うトナカイが、彼を一途に待ち続けていた恋人の少女と、焚き火の前で再会する――。
そんなベタベタな話を書いてしまったぼくは、素直に喜べなかった。
もっと、ひねったほうが良かったかな……。
いつもおかしなオチをつけて「まず~い」とべそをかかせているので、たまには遠子先輩の好きな、甘い話を書いてあげようと思ったのだけど……。
「タルト=シュクルなんて聞いたことありませんよ。その味になったのはたまたま偶然です。本当は女の子に、火のついた薪で殴られて、トナカイ汁にされる予定だったんです。再会したところで制限時間がきちゃったんですよ」
原稿用紙を片付け、シャーペンをケースにしまいながらそっけなく言う。
すると、窓際でパイプ椅子に体育座りしておやつを食べていた遠子先輩は、口に原稿用紙の欠片をくわえたまま、青ざめた。
「そんなぁ、せっかくのお砂糖のタルトに、ワサビ入りのトマトケチャップを浴びせるような真似をしなくても……」
細い肩をすくめ、腰の下まである長い三つ編みを揺らして、いやいやと怯えてみせたあと、すぐにまた日だまりの中の猫みたいに目を細める。
「よかった。トナカイさんが幸せになったところで終わって。本当に、とっても甘くて美味しいわ」
そんな顔をされると、胸の奥がむずむずして、居心地が悪くてたまらない。
決めた、次は絶対に、どろどろのホラーにしてやろう。
「あぁ、美味しかったぁ! ごちそうさまでした!」
ぼくの企みも知らず、遠子先輩は最後の一欠片まで、幸せ一杯の顔で飲み込んだ。
「それはよかったです(……けど、次は、ホラーでスプラッタですから)」
爽やかな笑顔を作りつつ、心の中でそんな風に、つぶやいたとき――。
「これでわたしも、心おきなく休部できるわ」
遠子先輩が、さらりと言った。
「へ?」
「ほら、わたし三年生でしょう? そろそろ受験に専念しなきゃ」
「まだ専念してなかったんですか!」
ぼくは唖然とした。今、十二月だぞ! 受験まであと二ヶ月くらいしかないじゃないか。なのに、いつまでたっても部室で蘊蓄たれながら、本をぴりぴりむしゃむしゃやっているので、てっきり推薦で決まっていると思っていたのに――。
「するんですか !? 受験!」
「もちろん。わたしは燃える受験生よ」
おっとりした顔で、堂々と断言する。ああ、ここまで呑気な人だと思わなかった。
肩を落とすぼくを見て、遠子先輩が年上のお姉さんぶって言う。
「そんなにがっかりしないで、心葉くん。尊敬する先輩と会えなくなって寂しい気持ちは、よぉくわかるわ。わたしも、おやつを食べられなくなるのは――いえ、慣れ親しんだ部室を離れるのは辛くてたまらないもの。
けどね、人は、甘い本ばかりめくっていてはダメなのよ。ときには石川啄木の『悲しき玩具』や『一握の砂』を、じっくり読むことも必要なの。
そう……、千切りにした大根と人参のなますを、どんぶりに山盛りにして、延々食べ続けるように――お酢の染みこんだ大根の儚さと人参の固さに人生の辛酸を感じながら、そこに混ざるほんの少しの砂糖の甘さに勇気づけられるように、噛みしめ、噛みしめ、食べるのよ。なますって、とても体にいいのよ。心葉くんも試してみて」
「意味わかりません!」
「幸せな春を迎えるために、冬はなますを食べて頑張りましょうってことよ」
「ぼくがなます食っても、遠子先輩の学力がアップするわけじゃないでしょう。それに石川啄木って、貧乏で死んじゃったんじゃないですか。報われてないです、落ちますよ」
「いやああああああっ、デリケートな受験生に、不吉なこと言わないで~」
両手で耳をふさぎ、椅子の上で縮こまる。
「ああ、もういいです。さっさと家に帰って勉強してください」
投げやりに言うと、急に年上っぽい眼差しになり、くすりと微笑んだ。
「ええ、ありがとう。そうするわ」
脱ぎ捨てた上履きに、スクールソックスに包まれた小さな足を差し入れ、立ち上がる。
そうして、三枚ほどのレポート用紙を、ぼくに差し出した。
「? なんですか?」
「差し入れリストよ。心葉くんも尊敬する先輩のために、なにかしたいでしょう?」
〝クレヨン ? 〝消防署 ? 〝リンボーダンス ? ――熱々のフォンダンショコラ風味。
〝蝶々 ? 〝恐山 ? 〝サーファー ? ――ふんわり癒しのバニラスフレ風味。
〝懐中電灯 ? 〝ラフレシア ? 〝英検 ? ――豪華フルーツパフェ風味。
そんな言棄が、びっちり書いてある!
なますを食べて精進するんじゃなかったのか!
「毎日、ひとつずつ書いてねっ。う~~~~んと甘いおやつをお願い。楽しみだわぁ。あっ、引退は卒業までしませんから、安心してね」
にっこり笑い、ひらひらと手を振って部屋から出て行く三つ編みの妖怪を、ぼくは茫然と見送ったのだった。