「井上のせいだからねっ」
放課後。琴吹さんは、とっても怒っていた。
二階の東南にある音楽準備室は、大量の段ボール箱で埋もれている。ぎっしり詰まった資料を分類し、ファイルにまとめるのが、ぼくらの仕事だった。
「ご、ごめん……でも、もともと琴吹さんが、先生に頼まれたことだし……」
「井上が引き受けなかったら、断ってた。って、井上と働きたかったわけじゃないからねっ」
ぷりぷりしながら、段ボールを開き、資料をがしがし床に積み上げてゆく琴吹さんに、毬谷先生が、華やかな明るい声で言う。
「やぁ、嬉しいですね。ななせくんに手伝ってもらえて。ぶっちゃけ好みなんですよね、ななせくん。むくれ方がチャーミングです」
「あたしは、オヤジは趣味じゃありません! それに、ななせって呼ぶな!」
「すみませんね。苗字がななせだと思って、うっかりそちらで覚えてしまったので」
「名簿に、フルネームが書いてあったでしょ!」
「そうでしたっけ?」
「~~~~っ!」
琴吹さんが苛立たしげに唸り、くるりと背中を向けてしまう。先生は、ぼくのほうへ体を寄せ、楽しそうにささやいた。
「ムキになるところが、可愛らしいですよね。あーゆー子になじられると、ぞくぞくして抱きしめたくなりますよ」
「先生……その発言は教師としてどうかと」
「教師も、教室を出れば一人の成人男子ですよ、井上くん」
「せめて校舎を出てからにしてください」
顔をくっつけて、ひそひそ話していると、琴吹さんがそぉっと振り返った。
とたんに先生が、嬉しそうに声を張り上げる。
「あれ? ななせくん。私と井上くんがなにを話しているのか、気になりますか? ななせくんは可愛いねぇって褒めてたんですよ。ねぇ? 井上くん」
「え、はぁ、その……」ぼくは困ってしまった。
「べ、別にっ! 気にしてないから」
琴吹さんが、慌てて背中を向ける。
「あっ、ななせくんの太ももに、みみずが」
「ひゃっ!」
琴吹さんが飛び上がり、スカートの下を、ばたばた払う。目が思いきり泣きそうだ。
「ふむふむ、やはりみみずが苦手ですか。そうだと思いました。私は、女の子の趣味嗜好を当てるのが得意なんです。ちなみにみみずは、十二月は冬眠で活動を休止していると思われるので、安心してください」
「~~~~っ、こ、このっ、セクハラ教師!」
資料をぐしゃぐしゃっと丸めて投げつけてくるのを、先生が、ひょいっとよける。それは、ぼくの顔に命中した。
「痛っ」
「や……っ! い、井上、どんくさい。ちゃんとよけてよ」
琴吹さんが、真っ赤な顔でおろおろし、ぶつぶつつぶやきながら背中を向けてしまう。
かと思ったら、心配そうにちらっと振り返り、また慌てて前を見る。
「ねっ、可愛いでしょう」
先生がぼくの肩に手をかけ、ウインクした。
琴吹さん……遊ばれてるよ。
ぼくは同情した。けど――。怒ったり慌てたりしている琴吹さんは、先生が言うように可愛らしく見えた。琴吹さんって、こういう子だったんだな。よく、クラスの男子が、琴吹ななせはイイと騒いでいるのがわかったような……。
「そろそろ休憩にしましょう」
一時間ほど作業をしたあと、毬谷先生が、紙コップにお茶を淹れてくれた。
ミルクティーみたいだけど、色も風味も濃くて甘い味がする。シナモンの香りがふんわり漂う。あ、生姜も入ってるかな。
「チャイというんですよ。インドで飲まれている、甘く煮たミルクティーです。どうですか?」
「はい、美味しいです」
遠子先輩が好きそうな味だ。甘くて、あたたかくて、疲れがとれて、ホッとして……。
先生が目で微笑む。
「それはよかった。私は、客人にチャイを振舞うのが大好きなんですよ。ななせくんも、お気に召していただけましたか?」
「……美味しい」
「私と結婚したら、毎日飲めますよ」
「しないっ、てゆーか。絶対絶対有り得ない!」
猫が毛を逆立てるようにわめく琴吹さんに、先生がめげずに言う。
「おぉ、そうだ。友人が、オペラのチケットを送ってきたんですよ。学生の発表会ですが、主役のテノールはプロの客演です。一緒にどうですか? ななせくん?」
指にチケットを挟んで見せると、少しは興味があるのか、琴吹さんが横目でちらりと見上げた。
「……それ、あたしももってる」
毬谷先生が、意外そうな顔をする。
「おや? 奇遇ですね? オペラお好きですか? 趣味があいますね。運命でしょうか」
琴吹さんが慌てて否定する。
「ちが……っ、友達が出演するんで、自分で買ったんです!」
「なんと、お友達は白藤音大附属の生徒さんでしたか。それなら私の後輩ですよ! ちなみに美人ですか?」
「だったらなにっ」
「いや、ぜひ三人でネパール料理でも囲みたいなーと。お友達はフリーですよね?」
「夕歌は彼氏いるから! いなくても、音楽鑑賞の時間に、耳栓して居眠りしてるようないい加減な音楽教師に、親友は紹介しないっ」
「私は仏教徒だから、賛美歌を聞くと、おへそから豆の蔓が伸びてくるんです」
「そんなの、聞いたことないよっ」
「嘘ですから」
「~~~っ!」
「せ、先生! そのへんでやめたほうが。琴吹さんも、げんこつ振り上げたりしないで。ね?」
不穏な空気を感じて、慌てて仲裁に入ると、琴吹さんは急に赤くなり、おろした手で、ぱっぱっとスカートを払うと、そそくさと作業に戻った。
毬谷先生は、そんな琴吹さんを、甘い湯気の向こうからおだやかに目を細めて、見つめていた。
「マリちゃんは、声楽の勉強をしてたんだよ。大学のときパリに留学してて、向こうのコンクールで入賞したこともあるんだよぉ」
翌日の昼休み。芥川くんとお弁当を食べていたら、森さんたちが、わざわざやってきて、毬谷先生の話をはじめた。
「ご両親も音楽家で、天才って呼ばれてたんだって。とろけるような、甘ぁいテノールで歌うらしいよ。マリちゃんなら、プロデビューしたらアイドル並みに人気出てたよねぇ。なんで教師になったんだろ。もったいな~い」
「あ、でもでも、彼氏にするなら、過去のある年上の美青年よりも、同年代の普通~の子のほうがいいよね? 頑張れ、井上」
「そうだよ。ななせはブランド志向じゃないから、安心してどーんと行っちゃえ」
「あっ、ななせ戻ってきた! じゃあね、ななせをよろしくね、井上くん」
ばたばたと去ってゆく森さんたちを、ぼくは、ぽかんと見送ったのだった。
「……今のどういう意味? 芥川くん」
「だいたいわかるが、琴吹に恨まれるから言えない」
芥川くんが、気の毒そうに箸を置く。
けど……そうか。
ぼくは、レタスとオムレツのサンドイッチを手にしたまま、ぼんやりと考えた。
毬谷先生も天才と呼ばれていたんだ。