「なんて、勝手な人なんだ!」
翌朝。ぼくは教室で、芥川くんに怒りをぶちまけた。
「誰のことだ?」
「遠子先輩だよ! もともとぼくは、どこの部にも入るつもりはなかったんだ。なのに、文芸部なんて怪しい部に引っ張り込んで、毎日作文を書かせて、自分は本を読みながら呑気に蘊蓄をたれ流して、今度はいきなり休部するとか言って、その間も自分が読みたいから作文書けとかさ」
「不満か?」
「大不満だよ」
「でも、書くんだな?」
芥川くんが、机の上に広げてある五十枚綴りの原稿用紙に目を落とす。
ぼくは書きかけの三題噺を、両手でこそこそ隠した。
「し、仕方ないじゃないか。書かなきゃ先輩への尊敬が足りないとか、心葉くんのせいで受験に集中できないとか、駄々をこねるに決まってるんだから、あの人は」
芥川くんの端整な顔が、おかしそうにほころぶ。
「井上は、普段は冷静なのに、天野先輩がからむと子供っぽくなる」
「なにそれ。子供っぽいのは遠子先輩のほうだよ。ぼくが、あの人の面倒を見てるんだ」
「そうか」
「そうだよっ」
「まぁ、そういうことにしておこう。それより、オレのメールは、無事に届いたか?」
「えっ!」
制服のポケットから、慌てて携帯電話を引っ張り出す。
ナイトブルーのそれは、先日購入したばかりの新品だ。今まで必要ないのでいらないと言っていたのだけど、芥川くんという友達もできたことだし、やっぱり持っていたほうが便利かなと思い、家族割で契約してもらったのだ。
「ゴメン、メールのチェックをする癖が、ついてなくて。昨日、ぼくのほうから『メアド決まったよ』って、きみの携帯に送ったんだよね」
着信を確認すると、芥川くんと、何故か妹の舞花の着信もある。小学生の妹もスイミングスクールの送り迎えのために携帯を買ってもらったので、嬉しくてメールを打ってみたのだろう。今朝、蜜柑のジャムを塗ったトーストを囓りながら、ふくれっ面でぼくを見ていたのは、このせいか。うわっ、あとで返事をしてやらないと。あれですねると結構面倒くさい。
「芥川くんのメール、ちゃんと届いてるよ。って、芥川くん顔文字使うんだね。意外」
芥川くんが、照れくさそうな顔になる。
「姉二人に、あんたのメールは硬いと言われてな、改善してみた。なかなか便利だぞ」
「そっか。なら、ぼくも妹に教えてもらって、うんと珍しいやつを探して送るよ」
「ああ、楽しみにしている」
と、そこへクラスの女の子たちが、かたまってやってきた。
「ねぇ、井上くん、携帯買ったんだね! うわぁ最新の機種だ。カッコいい」
「井上くん、あたしとメアド交換しない?」
「あたしも! いいでしょう? 井上」
いきなり囲まれて、ぼくは面食らってしまった。芥川くんならともかく、どうしてぼく? これまでぼくは、女の子にモテたことはないのに。
「ほら、ななせもっ」
後ろのほうにいた琴吹さんを、森さんが引っ張り出す。琴吹さんが、わたわたする。
「あ、あたしは別にっ。井上のメアドなんか聞いても、用ないし」
「えーっ、みんな、交換するんだから、ななせもしなよ~」
「そうだよ。連絡綱を回すとき困るじゃない。はい、ななせ、携帯貸して」
「い、いいってば」
「もぉ、焦れったいな。ええい、ここか!」
「や、ダメ! 森ちゃん、返して!」
森さんが、琴吹さんのポケットに手を突っ込んで携帯を取り上げる。
あの……そこまでしなくても。琴吹さん、ものすごく嫌がってるみたいだし。
と、そのとき。
「ななせー、お客さーん!」
廊下に、カジュアルなスーツを着た優しげな男性が立っているのを見て、琴吹さんは、「げっ!」という顔をした。それから焦っているようにぼくを睨みつけ、あっちを見て、またこっちを見て、またあっちを向き、こっちを向く。
「琴吹さん、呼ばれてるよ」
「い、井上に言われなくても、わかってるよっ」
キッと言い放ち、唇を噛みしめ、廊下のほうヘダッシュしていった。
「あっ、マリちゃんだ」
「うわぁ! ななせに何の用かな?」
去年の春から音楽を教えている毬谷敬一先生は、品の良い顔立ちで、女子に人気なのだ。ちょっと変人だという噂もあるけれど……。
「マリちゃん、絶対、ななせに気があるよね!」
「うんうん。〝ななせくん ? なんて名前で呼んじゃってさ、授業中もよく、ななせのこと見てるし。やたらななせのこと、かまいたがるし。どうする? 井上くん?」
「えつ、ど、どうって……?」
「ななせは、男の子に人気あるんだよ~。なんたって美人だし、ガード固いトコが、そそるしね。うかうかしてると、ヤバいよ」
ヤバいってなにが?
「あーっ、もぉ、マリちゃんとななせ、なに話してるんだろ。気になる~」
森さんたちは異様に盛り上がっている。ぼくは、ちんぷんかんぷんだった。隣で芥川くんが肩をすくめている。
毬谷先生は手をあわせ、琴吹さんになにか頼んでいるようだった。けれど琴吹さんは、ろくに聞いていないようで、ぼくのほうを、ちらちら睨んでいる。頬をふくらませ、唇を尖らせたその顔が、今朝、不満そうな上目遣いでむくれていた小学生の妹に似ていると思ったとき、毬谷先生が、急にぼくのほうを見た。
おや? という眼差しをしたあと、高そうな時計をはめた手を、ちょいちょいと振って、おいでおいでをする。
ぼくですか? と目で問いかけると、人好きのするやわらかな笑顔で、うなずいた。
戸惑《とまど》いながら、廊下へゆき、
「なにかご用ですか?」
と尋ねると、耳をくすぐるような、軽やかな甘い声で言ったのだった。
「井上くん、きみ、放課後、私の仕事を手伝ってくれませんか? 音楽室の資料の整理をしてほしいんですよ」
「ちょ……っ! なんで井上に頼むの!」
琴吹さんが、ぎょっとした様子でわめく。
「だってななせくん、さっきから井上くんに、アイコンタクトしてたでしょう? 『一人じゃ大変だから、手伝って』って」
「してない! てゆーか、そもそも引き受けてない」
「おや? では何故、井上くんのことばかり見ていたんですか?」
「そ、それは……っ!」
「井上くんは、もちろん手伝ってくれますよね?」
「え、あ? はい」
軽やかな声と親しみやすい笑顔につられて、反射的に返事をしてしまいハッとした。
あれ? 今ぼく、はいって言った? マズい! 琴吹さんが唇を尖らせて睨んでいる。
「おお、ありがとう。では早速、今日の放課後からお願いしますよ。仕事はたっぷりありますから、二人とも頑張ってくださいね」
毬谷先生が、満足そうにぼくらの肩を叩いた。