放課後。遠子先輩が中庭に不法設置した恋愛相談ポストに、差し入れの三題噺を投函してから音楽準備室へ行くと、ドアの前に知らない男子生徒がいた。
背丈はぼくと同じくらいだろうか。色の抜けた明るい髪をしていて、細身で眼鏡をかけている、これといって変わったところのない、ごく普通の生徒だ。
彼は顔を伏せ、ぼくの傍らを空気のように、するりと通り抜けていってしまった。
あれ? 今の人、準備室に用があったんじゃないのかな……?
ドアを開けると、毬谷先生がパイプ椅子に腰かけ、チャイを飲んでいた。考え事をしているのか、指を口元に当て、無防備にぼぉっとしている様子が、どこかの三つ編みの文学少女を思い出させて、苦笑した。手首で、重そうな時計がきらきら光っている。
「あれ? 井上くん、一人ですか? ななせくんは?」
「用があって遅れるそうです」
「あー、よかった。昨日いじりすぎたから、逃げられたのかと、ひやっとしましたよ」
「……自覚があるなら、自重してください」
「やぁ、だって、反応が楽しくてつい」
内緒ですよというように、目で笑いかけてくる。
昨日から先生は、そんな風に、仲良しの親戚のお兄さんのような親しげな視線を投げてくる。そうされると、胸がちょっとくすぐったくなる。
「先生は、海外のコンクールで入賞して、天才って呼ばれてたそうですね」
「はは、そんなこともありましたね」
毬谷先生が、軽やかに笑う。
その笑顔があんまり自然だったので、ぼくはつい訊いてしまった。
「どうして、プロにならなかったんですか」
口にしたとたん、胸の奥がズキッとした。答えを待つぼくは、息をつめ真剣だった。
「……」
何故なら、ぼくも、かつて天才と呼ばれたことがあったから。
平凡な中学生だったぼくを、大きな波が飲み込んだのは、中学三年生の春だった。
たまたま応募した小説雑誌の新人賞を、史上最年少の十四歳で受賞し、ペンネームが井上ミウなんて女の子名だったせいで、謎の覆面天才美少女作家という大層な呼び名を頂戴し、全国区の有名人になってしまったのだ。
二年以上の歳月が流れた今、ぼくはおだやかな日常を生きている。友達もできたし、笑えるようにもなった。
毬谷先生は――どうだったのだろう?
周囲に天才と賞賛され、将来を嘱望されながら、何故、教師になったのだろう?
そのことを、今、どう思っているのだろう?
先生は甘い湯気の向こうで、優しく口元をゆるめた。
「私は、好きな人と一緒にゆっくり過ごす時間を、なによりも大切にしたかったんですよ。華やかなステージとか、胃が引き絞られるような修練とか、過密なスケジュールとか、そういったものは、肌にあわなかったんです」
濁りのない澄み切った声だった。
目をやわらかく細め、金色の蜜がとろけるように笑うと、乾杯するように紙コップを持ち上げる。
「だから、自分の選択を後悔はしていませんし、断言します。一杯のチャイがあれば、人生は素晴らしいし、平凡な日常は何物にも勝ると」
その言葉も、声も、光のようにぼくの心にまっすぐに差し込み、シナモンの香りが漂う甘いチャイのように、ぴりっとした刺激を残しながら、体の隅々にまで、ゆっくりとあたたかく染み渡った。
先生の笑顔から、目が離せなかった。
ああ、いいなぁ。
ぼくもいつか、こんな風に自分の人生を肯定できるようになりたい。
ささやかな日常を愛おしみながら、ゆったりと自然に、毎日を過ごしたい。
変人だとばっかり思っていた毬谷先生が、とても広くて大きな人に見えた。
やがて、琴吹さんが息を切らして現れた。
「いらっしゃい、ななせくん。そんなに大急ぎで走ってくるほど、私に会うのを楽しみにしてたんですね」
「ち、違う……っ」
「おや、みみずが」
「ひゃ!」
「琴吹さん、みみずは冬眠中だよ」
「ぅぅっ、うるさい、井上っ」
昨日と同じように、毬谷先生が琴吹さんをからかう。
琴吹さんが真っ赤な顔で怒ったり、ぼくが仲裁したり……。
そんな、どうってことのないやりとりが、楽しくて、あたたかで、心地よかった。
『こんにちは、心葉くん。
ポストのおやつ、いただきました。
〝校門 ? と〝くじら ? と〝バンジージャンプ ? のフレッシュミントゼリー風味。
ゼリーが甘くて、ミントというよりは、濃いミルクティーのようだったけれど、口の中で、さっと溶けていって、シナモンと生姜の香りがして美味しかった~。そう、まるでチャイの味ね。ラストの一文は、熱でとろとろにとろけたゼリーが、おなかの中にあたたかく落ちてゆきました。とても幸せな気分。ごちそうさま。
業者テストの結果がE判定で、ちょっと落ち込んでたのだけど、心葉くんのお話を食べて元気が出ちゃったわ。また、美味しいおやつを書いてね。
遠子 』
うわっ。見抜かれてる。
放課後。ポストに入っていた、遠子先輩からのお便りを読み、頬がじわじわと熱くなった。チャイの味……まさにその通り。意識したつもりはなかったんだけどなぁ。
それにしてもE判定って――。遠子先輩、大丈夫なのか?
受験の前に、腹をくだされたら困るので、当分幽霊の特盛りはやめておこう。
授業中に仕上げた新しい〝おやつ ? を投函し、ぼくは音楽準備室へ向かった。