附:
一、(http://marute.co.jp/~hiroaki/kansyou_syuuka/p-16.htm)
はらはらと 黄( き) の冬(ふゆ) ばらの 崩(くず) れ去( さ) る かりそめならぬ ことの如(ごと) くに
【作 者】窪(くぼ) 田(た) 空(うつ) 穂(ぼ)
【歌 意】
はらはらと黄色の冬ばらが、崩れるように散り去っていく。それはまるで、かりそめのちょっとしたこではないかのように。
【語 釈】
○はらはら==擬音語。
○冬ばら==薔薇の品種は西洋種・中国種など多数あり、初夏に咲くのが一般的。それ以外の四季咲きと二季咲き (五・六月と十・十一月) のもののうち、冬に咲く薔薇をとくに冬薔薇という。
○かりそめ==ほんの一時的の。いい加減の。
【鑑 賞】
黄色の冬ばらが美しく咲いていた。その薔薇の花が咲ききって、今、崩れ落ちるように散っていく。 「崩れ去る」 という表現によって、単に 「散り去る」 ことが意味する日常的世界の些事ではないことを読者に予期させる。
それは単なる花の散り際のはかなさというようなものではなく、 「kりそめならぬ」 こと、つまり、何らかの自然や神の摂理といった日常の手に届かぬものによってこの世が支配され、その一端に自己自身が連なっていることを感じさせるのである。
それは、日常世界とは別の次元で存在する別世界の条理が、突如として崩れ来たことへの畏怖とも言えるだろう。
「冬ばら」 の 「崩れ去る」 姿が教える世界の摂理の一端は、我々にとって決して厳しいものではない。世界の摂理に連なることによってこそ実感される。落ち着き払い、安らかな感情がそこから感じ取れる。
「冬ばら」 が告げるひっそりした摂理は、たしかに畏怖をもたらす 「かりそめならぬ」 ものであったが、我々の人生に安心を与えるものである。それは、作者の人生観がひっそりと、しかし確かな手ごたえで我々に伝える自然の摂理である。
【補 説】
作者窪田空穂がこの作品をものにした時、齢八十二歳。昭和三十四年の時である。
二十冊目の歌集 『老槻 (オイツキ) の下』 中の 「庭もみじ」 と題されたものの中の一首で、人生の終焉を感じ取りながら作られたものだろう。
長野から上京した窪田空穂は、一時キリスト教に帰依するなど、その作は強い人間愛に貫かれ、人生肯定という態度として結晶した。
『土を眺めて』 や 『鏡葉 (カガミバ) 』 などに、社会詠・自然詠・日常詠という特徴が顕著に窺われる。
【作者略歴】
明治十年 (1877) 生まれ、昭和十二年 (1967) 没。八十九歳。
長野県出身。本名は通治 (ツウジ) 東京専門学校 (早稲田大学) 卒業後、明治三十三年与謝野鉄幹撰の 「文庫」 に投稿後、新詩社に加わるも、鉄幹と袂を分かつ。
のち、国木田独歩らと交友があり自然主義文学に傾倒。早稲田大学教授。人生主義の立場から詠まれた作が多い。
『新古今和歌集評釈』 『古今和歌集評釈』 『万葉集評釈』 などの古典注釈の功績も大きい。
(学習院大学大学院 谷 佳憲)
二、(http://www.shigaku.or.jp/hanapoem/02.2.7.htm)
はらはらと黄の冬ばらの崩れ去る
かりそめならぬことの如くに
窪田 空穂
「まひる野」を創刊された大家の83歳の時の御作。時に昭和34年。20冊目の歌
集『老槻(おいつき)の下』中の「庭紅葉」と題されたものの中の一首です。
他の花に比べると、ばらの花は活けてあっても割合に長持ちするものですが、でも、
やはり、散る。そこに、ばらの花があると思っている時間が、やや長いだけに、あ、
やはり散ってしまったと思う。
そしてそれは、仕方のないことなんだ、と改めて思う。たとえ、それが珍しい黄の
ばらであっても…。