今朝は日曜なれぱ家に在れど、心は樂しからず。エリスは床に臥すほどにはあらねど、小き鐡爐の畔に椅子さし寄せて言葉寡し。この時戸口に人の聲して、程なく庖廚にありしエリスが母は郵便の書状を持て來て余にわたしつ。見れぱ見覺えある相澤が手なるに、郵便切手は普魯西のものにて、消印には伯林とあり。訝りつゝも披きて讀めぱ、とみの事にて預め知らするに由ながりしが、昨夜こゝに着せられし天方大臣に附きてわれも來たり。伯の汝を見まほしとのたまふに疾く來よ。汝が名譽を恢復するも此時にあるべきぞ。心のみ急がれて用事をのみいひ遣るとなり。讀み畢りて茫然たる面もちを見て、エリス云ふ。「故鄕よりの文なりや。惡しき便にてはよも。」彼は例の新聞社の報酬に關する書状と思ひしならん。「否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相津が、大臣と倶にこゝに來てわれを呼ぶなり。急ぐといへぱ今よりこそ。」
かはゆき獨り子を出し遣る母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、工リスは病をつとめて起ち、上襦袢も極めて自きを撰び、丁寧にしまひ置きし「ゲエロツク」といふ二列ぼたんの服を出して着せ、襟飾りさへ余が爲めに手づから結びつ。
「これにて見苦しとは誰れも得言はじ。我鏡に向きて見玉ヘ。何故にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共に行かまほしきを。」少し容をあらためて。「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豐太郎の君とは見えず。」又た少し考へて。「縦令富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣ふ如くならずとも。」
「何、富貴。」余は徴笑しつ。「政治社會などに出でんの望みは絶ちしより幾年をが經ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」エリスが母の呼ぴし一等「ドロシュケ」は、輪下にきしる雪道を窗の下まで來ぬ。余は手袋をはめ、少し汚れたる外套を背に被ひて手をば通さず帽を取りてエリスに接吻して樓を下りつ。彼は凍れる窗を明け、亂れし髪を朔風に吹かせて余が乘りし車を見送りぬ。
余が車を下りしは「カイゼルホオフ」の入口なり。門者に祕書官相澤が室の番號を問ひて、久しく踏み慣れぬ大理石の階を登り、中央の柱に「プリユツシユ」を被へる「ゾフア」を据ゑつけ、正面には鏡を立てたる前房に入りぬ。外套をばこゝにて脱ぎ、廊をつたひて室の前まて往きしが、余は少し踟ちゅうしたり。同じく大學に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相澤が、けふは怎なる面もちして出迎ふらん。室に入りて相對して見れぱ、形こそ舊に比ぶれば肥えて逞しくなりたれ、依然たる快活の氣象、我失行をもさまて意に介せざりきと見ゆ。別後の情を細叙するにも遑あらず、引かれて大臣に謁し、委托せられしは獨逸語にて記せる文書の急を要するを飜譯せよとの事なり。余が文書を受領して大臣の室を出でし時、相澤は跡より來て余と午餐を共にせんといひぬ。